学習の理屈付けと動機付け


3つの知能観

  1. 記憶能力など、機能的な制約によって知能が定まる→(為す術無し)
  2. 推論レパートリーを増やしてやれば、知能は向上する→(超楽観的な知能観)
  3. 効率的な学習スタイルを、意図的に使うようになって初めて一人前だ→(『構造化する構造』的な知能観)

学習動機の理論武装の必要性

Push — 改革を押し進める要因

Pull — 改革を引き寄せた要因

学習からの逃走:学習性無力感

失敗の原因帰属モデル(何に理由を求めるか?)

内的・外的×統制可能・不可能×安定・不安定

学習性無力感(Learned Helplessness) 

強制的,不可避的な不快経験を繰り返し体験することによって,何をしても環境に対して影響を及ぼすことができないことを,誤って学習してしまうこと(学習できないことを学習してしまう)。

学習動機と対応する学習方略

内発的動機付け

深い処理(有意味課題志向)。行為自体の面白さ,有用性,自己効力感

外発的動機付け

浅い処理(無意味課題志向)。賞罰,規範意識,社会化された目標,エリート志向,リスク回避,下落回避など

勉強させることの理屈の必要性

教養主義 − 大いなる不毛な迂回措置

定義: 「学問や知識などによって培われた、広く豊かな考え方」

→ 後になって必ず役に立つ。それくらい知っておかないと恥ずかしい。教養として必要だから必要だ。

ただし、このような教養主義が正しく機能するためには、 「勉強する理屈や問題相互の背景に存在する理屈は、 学習者が自主的に再構築するもの」という、 自力救済型の学力形成論が、 学習者たちの間でカルチャーとして共有されている必要がある。 過去(大昔?)においては、 このようなカルチャーが存在していたかもしれないが、 現在では大学でも成立しているかどうかは怪しいと思う。

算数における加減乗除のような基礎基本が重要なのは当たり前だし、 誰でも、どのような場面で必要となるかを簡単に説明できる。 しかし、それ以外の基礎基本が、 どのような時に使いうるのか、 (学問体系の中で)どのような意味があるのかといった、 このような「成功報酬」が延々と先伸ばしにされ続ける現状に問題はないのだろうか? 大人になったら必ず役に立つというが、 本当に役に立ったと実感できるかどうか、 誰も説明してくれないし、保証してくれない。

たとえば、10歳の小学生に対して、 大学生や社会人になるまで待てというのは酷だし、 大人になっても誰かが教えてくれるわけでもない。 いつまでたっても、謎のままで終わる(可能性がある)。 みんな不幸…。(笑)

経験主義 vs. 学校知学力

しかし!
航海用計算尺が使える
PHSや携帯電話で素早くメールを打てる
一太郎やワードのエキスパートである

これができるからといって,本当にエライか?
基礎・基本とは一体なんなのか?
基礎・基本はどうあるべきなのか?
どのような知識を,どのように教えるべきなのか?

学校知が生まれる仕組み

学校知が生じるプロセス

学習活動と学習目標の違い

活動内容と学習の目標とを混同していないだろうか?活動内容と学習目標とは異なっているのが一般的である。少なくとも、教材と学習目標とが一致しているような状況は、「○○○に慣れる」といった状況でない限りほとんどあり得ない。したがって、こちらが意図した学習目標と違った目標設定をしている可能性も疑うべき。どのような理解を理想としているかが、生徒に正しく伝わっているを確認した方がよい。

経験が滑る現象

たとえば、理科の観察実験で振り子の周期が一定であることを確認したとして、その理由として、「ドリルの答えにそう書いてあったから」と答えたりすることがある。また、文章読解をしたときには段落毎に討論をしたりするが、生徒に「段落ってどうして存在すると思う?」と聞いたとき、「みんなで話し合うためにあるんじゃないの?」と答えたりすることが、本当にある。できれば、これは全部ウケねらいで答えたものであって欲しいところだが、教師が意図した内容がキチンとうまく伝わっている保証は全くない。

意味のある経験にするために

自己効力感の高い知識